山道を登ること二時間。足元の石段は苔に覆われ、杉の根に砕かれ、いつしか道かどうかも判然としなくなっていた。
集落が見えた。廃村——常世集落。茅葺きの屋根は落ち、柱は傾き、蔦が建物を抱き込んでいる。人の気配はなかった。ずっと前から、なかったのだろう。
中央に古い井戸があった。石積みの縁は滑らかに磨り減り、長い年月だれかが手をかけてきた痕跡を残している。その底から、蒼白い光が脈動していた。
日が山の端に触れた。と同時に、集落全体を包むように——空気が変わった。引き返せる感じが、なくなった。
結界が閉じたのだ。来た道は暗い壁になっていた。
井戸の傍らの地面に、スマートフォンが落ちていた。画面は割れている。待受画面に写真——若い女性の笑顔。藤堂遥、と三人は確認した。
井戸の左手、石段を降りると墓地があった。雑草が膝丈まで伸び、墓石が列をなして並んでいる。二十基以上。
懐中電灯を向けた。一つ目の墓石の日付を読む。明治三十四年十月十三日。
次の墓石。同じ日付。
その次も。その次も。
全員が、同じ年の、同じ月の、同じ日に死んでいた。
いちごが苔を指で払い、戒名を読み上げた。老人も、子供も、男も女も——あらゆる年齢があった。それが全て、同じ日に消えている。
村が丸ごと死んだのだ。一日で。
井戸の右手、本堂に向かう小径に踏み込んだ。
それは突然、現れた。
青白く発光する人型。女の輪郭。だが顔がない。つるりとした肌が頭部を覆い、目も鼻も口もなかった。ゆっくりと、不規則に、宙を漂いながら壁に沿って巡回している。
残影——かつてこの集落で死んだ者の、魂の残滓。触れれば即死する。それだけで充分だった。残影の手が掠めただけで皮膚が白くなる——目の前でそれが起きた。
わかめと五郎が物陰に隠れようとして——
残影の「顔」がこちらを向いた。顔のない顔が、こちらを見ている。
全員、息を殺した。動かない。時間が凍る。
残影はゆっくりと向きを変え、巡回路に戻った。三人は石段の陰でしばらく動けなかった。
触れれば死ぬ——それだけが確実な真実だった。
残影をやり過ごして井戸に戻り、三人は息を整えた。
霧の中から、一人の男が現れた。
ふらつく足取り。破れたコート。全身から疲弊が滲み出ていた。だが目の焦点が合っていない。
わかめが息を呑んだ。
W.W だった。前のセッション、霧崎市で共に海の封印を果たした、あの探偵。だが何かが——根本的に——違った。瞳に深みがない。言葉を探すのに時間がかかる。まるで記憶の海を掻き回すように、ひとつひとつの言葉を拾い上げている。
三度死に、三度戻った成れの果て。
W.Wの顔に、一瞬だけ何かが過ぎった。ジェシーという名前が響かない。家族という言葉が届かない。三度死に戻りし者。記憶も技能も自我も、そのたびに薄れていく。
男は懐から隕鉄の欠片を取り出した。鈍い光を放つ、手のひら大の金属片。
わかめの手に欠片が渡された。冷たかった。異常なほど冷たかった。
蒼い光がW.Wを包んだ。ゆっくりと、しかし確実に、その輪郭が薄れていく。笑っているような気がした。確かめる間もなく——消えた。
井戸の傍に、誰もいなくなった。
いちごが帽子のつばを直した。
前のキャラクターの末路を、他人のふりで見ている。
集落の最奥に、他より大きな屋敷があった。村長宅だ。
一階を漁って回ると——いちごが陰謀論者の目で隅々まで調べ、隠された引き出しから稲葉の手紙を発見した。年季の入った封書。差出人は「稲葉」とだけある。
開くと、震えた老人の文字で短く書かれていた。
三つの鍵——封印を施すための三つの場所。結界を破るための手順が、ここに書かれていた。
干し飯の袋も見つかった。五郎が目を輝かせた。
二階の書斎は崩壊寸前だった。床板が数か所、すでに抜けかけている。
五郎が棚を調べると、分厚い村長の日誌が出てきた。ページをめくると「庄助」という名が頻繁に登場する。死んだはずの男が何度も戻ってくる。そのたびに何かが欠けている。言葉が減る。表情が薄れる。
最後の記録は明治三十四年十月十二日——集落が滅んだ前日だった。「鍛冶場を探せ」という最後のメッセージ。
明治の干し飯の感想だった。
三つの鍵の一つ目——井戸。
いちごが麻縄を腹に巻き、迷わず縁を跨いだ。戦闘特化の彼女にとって、こういう行動に躊躇はない。MAGA帽子が揺れ、暗い穴の中に降りていく。
底まで降りると、水底の石畳の隙間に石の鍵が挟まっていた。掌に収まるほどの、滑らかな楕円形の石。中心に奇妙な文様が刻まれている。
取り出した。
その瞬間——水面が揺れた。
見下ろすと、暗い水面に顔が映っていた。自分の顔だ。だが笑っていた。自分は笑っていないのに、水の中の自分が、こちらを見て笑っていた。
いちごは縄を三度引き、上に合図を送った。
引き上げられながら、水面から目を離さなかった。底まで降りていく間、笑顔は消えなかった。
残影の巡回パターンを把握しながら、三人は鍛冶場へ向かった。
廃工房の中は黒く煤けていた。炉が冷えて久しい。埃の積もった台の上に、蝋燭の燃え滓と、破れかけた紙片が残っていた。
封印の詠唱が書かれていた。台の下、錆びた箱の中に——隕鉄の塊。W.Wから渡された欠片と同じ金属だ。二つ目の鍵。五郎が回収した。
だが最後の一枚が足りない。詠唱の最後の節が、ここで途切れていた。
三人が安堵しかけたとき——入口の方角から、青白い光が滲んだ。
残影が戻ってきた。巡回路がずれた。あるいは最初から、ここを通るルートだったのか。出口が塞がれた。
逃げ場がない。
いちごが武器を構えた。だが無力だ。触れれば死ぬ。距離は縮まっている。
その瞬間——五郎が立ち上がった。
五郎が踊りだした。でたらめな、全力の、民俗学の大学院生らしからぬ踊り。炉の周りを回り、腕を振り、残影の注意を引きつけた。
残影が五郎に向いた。
五郎は笑っていた。
残影が五郎に触れた。
死——
だが消える前に、蒼い光が膨れ上がった。爆発するような閃光。鍛冶場全体が青く染まった。そして——光が、井戸の方へ流れていった。
しばらくして、井戸から声がした。
五郎が這い上がってきた。濡れていた。茫然としていた。生きていた。
五郎は首を傾げた。
死に戻りの代償。民俗学を志した原点——祖母の記憶が全て消えていた。
腹が鳴った。それだけは変わらなかった。
三人は鍛冶場を出た。星が出ていた。隕鉄を握りしめ、三人はまだ見ぬ祠へ向かった。
集落の西、丘の上に崩壊した祠があった。
石造りの台座だけが残り、屋根は半ば落ちている。台座の割れ目に、三つ目の鍵が挟まっていた——鉄の鍵。錆びているが確かな重みがある。
祠の壁に、刻印があった。
隕鉄。番人。星の鉄——W.Wが渡した欠片が、なぜここに必要なのかが繋がった。
丘の上から集落を見下ろし、三人は残影の巡回パターンを確認した。二体いる。本堂周辺と、井戸を中心とした広域巡回。二体同時に相手にすることはできない。
三つの鍵が揃った。
石の鍵、隕鉄の塊、鉄の鍵——三者の手に一つずつ。
後は、地下へ降りるだけだ。
計画は単純だった。いちごが残影を引きつける。その間にわかめと五郎が本堂へ突入し、地下への道を探す。
いちごがMAGA帽子を正した。隕鉄の欠片を高く掲げ、残影二体に向かって歩き出した。
陰謀論による挑発。残影はこちらに向いた。
いちごが鉈を振るった——刃は残影をすり抜けた。物理攻撃は効かない。だが残影の注意は完全にいちごへ向いていた。
SAN23の狂戦士は、それでも動じなかった。
わかめと五郎が本堂に飛び込んだ。床板を踏み割り、壁を手で探り——見つけた。地下への階段。石造りの急な段。蒼い光が下から滲んでいた。
降りると、広い空間が広がっていた。
石造りの地下祭殿。中央に石棺。三つの鍵穴が口を開けている。
そして——奥の闇に、番人がいた。
天井に届く不定形の黒い塊。無数の目が光っている。動いてはいない。だが確実に、こちらを認識していた。
わかめが石棺に近づいた。三つの鍵穴——石の鍵を嵌める。隕鉄を嵌める。鉄の鍵を嵌める。
五郎が隕鉄の欠片(W.Wから渡されたもの)を構えた。番人が動いた。黒い腕が伸びる。五郎がそれを押し返した——隕鉄が番人に触れ、わずかに後退した。
星の鉄が番人を押し返す。刻印の言葉が正しかった。
わかめが詠唱を始める。
だが——最後の一節が、ない。
紙片はそこで途切れていた。鍛冶場で見つけた紙片。最後の一ページが欠けていた。
番人が五郎を吹き飛ばした。腕がわかめに迫る。
わかめの頭に——声が響いた。
声は、知っている。
男の声。くたびれた、しかし確かな重みを持つ声。蒼い光の中に溶けていった男の——最後の欠片が、この祭殿の石壁に刻まれていた。
わかめが声に続いた。詠唱が完成した。
石棺が割れた。蒼い光が爆発した。
番人が——崩壊した。
残影が昇天していく。ゆっくりと、光になって、空へ溶けていく。
井戸の光が消えた。
鐘が三度鳴った。
東の空が白む。
結界が解けた。
三人は井戸の前に立っていた。百年ぶりの、本当の朝。
わかめは手帳の最後のページを開いた。ペンを走らせる。
五郎の腹が鳴った。
明治三十四年に死んだ魂たちが、ようやく眠れる場所を得た。
帰り人W.Wは、最後の欠片を使い果たして消えた。
井の頭五郎は祖母を忘れたまま、腹を空かせている。
そして——藤堂遥は、まだ見つかっていない。