ある朝、鷺宮アルトが手帳を開くと、知らないページが増えていた。
インクの滲んだ文字。見覚えのない筆跡——いや、正確には覚えがある。忘れようとしていた、あの字だ。
死んだはずの男の字だった。元記録官だったアルトの手帳に、30年前に孤島で消えたはずの灯台守——渡辺渉の筆跡が現れた。
霧崎港へ向かい、船の老人に渦ノ島への送迎を頼んだ。老人は「物好きだな」と一言言い、それ以上何も聞かなかった。
30年前に廃村になったはずの漁村が、島に残っていた。
建物は朽ちている。海風に削られた板壁、傾いた電柱。だが——井戸の縁だけが、最近磨かれていた。誰かがここに来ている。あるいは、いる。
集会所の扉を開けると、一人の女性が振り返った。海洋考古学者の七瀬凪。3日前から島を調査中だと言った。
その言葉が、全ての始まりだった。
干潮の間だけ入れる。七瀬の言葉通り、岩場の下に洞窟の口が現れていた。
内部の壁に、三つのパネルが刻まれていた。供物の儀式。海の民との交流。そして——海底に眠る、巨大な何か。
洞窟の奥へ進むと、珊瑚礁の隙間でかすかに光るものがあった。
珊瑚の笛。器の一つ目。
だが、その時——岩の向こうで水音が変わった。潮が満ちてくる。コナンが素早くロープを天井の岩に引っかけた。
集会所に戻り、珊瑚の笛を改めて調べていたその時。
ごんが笛を手に取った。
「これ、どんな音がするんだろう」
誰かが止める間もなかった。
笛の音が空気を揺らした——そして海が返事をした。遠くで、何かが動いた音がした。波の下から。
渡辺は後に、静かな声でこう言う。「器の存在を、神に教えたようなものだ」
日が落ちた。
それは急激だった。潮の匂いが変わり、波の音が低くなり——そして集会所の窓ガラスの向こうで、何かが呼吸し始めた。
深きもの。海から来た者たち。
アルトは集会所の外へ出ようとした。神社の方向に向かおうとして——3体の深きものと対峙した。
血を流しながら、アルトは集会所に逃げ帰った。
壁に貼られた護符が、その夜を守った。集会所だけが安全地帯だった。夜の間、誰も外に出られなかった。
窓の向こうで、何かの影が行き来していた。ずっと。夜明けまで。
夜明けを待っている間、アルトが集会所の床を調べると——床板の一枚が、内側から触れられた痕跡を持っていた。
地下通路。埃が積もっているが、しかし定期的に誰かが通った跡がある。
通路を辿ると、灯台の基底部に繋がっていた。
扉を開けると、石造りの地下室。そして壁一面に刻まれた、無数の文字——
忘れるな
忘れるな
忘れるな
— 壁のすべての面に。30年分の文字。
部屋の隅に、男がいた。
骨と皮だけのような体。白くなった髪。しかし目だけが、まだ確かな光を持っていた。
W.W.——渡辺渉。灯台の最後の灯台守。30年前からここにいた。封印の番人として。
壁に、小さく刻まれた文字があった。
「頼んだぞ、ジャーナリスト」
渡辺から封印の方法を聞いた。
三つの器を、海底神殿の祭壇に配置する。そして封印の詠唱を唱える。大潮の干潮——次の機会は翌夜22時。
器の一つ目は既に手にしている。珊瑚の笛。
残り二つ——銀の杯は沈没船「渦潮丸」に。海神の壺は、島北端の鍛冶場の近くに。
渡辺は壁を指さした。30年間かけて刻み続けた詠唱の全文。アルトは手帳を取り出し、一文字一文字、丁寧に書き写した。
2日目の朝。干潮で沈没船「渦潮丸」の船体が露出した。横山(ぽじ)が合流した——CON90のタフガイ。それだけで心強かった。
船内に乗り込む。腐食した鉄骨、海藻に覆われた床。船長室には錆びた金庫があった。
金庫の中に——銀の杯。器の二つ目。
航海日誌も発見した。最後の記述は、たった一行だった。
横山が船室の壁を蹴った。
横山の直感が、棚を見つけた。
神社跡で祭壇を調べている男がいた。
フリーライターの烏丸蓮司と名乗った。しかし——ナイフに刻まれたイニシャルは「K.R.」。到着時期が辻褄に合わない。
渡辺と対面させた。
渡辺の顔が変わった。
沈黙の後、烏丸は言った。
30年前の事件の首謀者の息子——烏丸家。それが彼の正体だった。そして、ひとつだけ本当のことを言った。
アルトは烏丸を見て、静かに言った。
それが仲間に加える、アルトなりの言い方だった。
渡辺が言っていた——番人の弱点は、隕鉄だと。
島の高台に古い鍛冶場があった。炉は冷えている。だが棚に、鍛え上げられた短剣が残っていた。刃に隕石の成分が含まれている——そういう作り方をされた、特別な武器。
横山が装備した。
その重みを確かめるように、横山は刃を見た。今夜のために、この刃がある。
22時。大潮の干潮。灯台の直下——潮が引いた岩場に、穴が開いた。
降りる。石段が続く。海底へ。
神殿があった。人が作ったものではない。海そのものが形作った空間。天井から珊瑚が垂れ下がり、壁には生物発光が脈打っている。
中央に祭壇。三つの凹みが、器の配置を待っていた。
アルトが三つの器を配置しようとした——その時。
番人が動いた。
無数の目を持つ巨大な黒い塊。壁から、床から、天井から——溢れ出すように。ひとつの存在が、神殿を満たした。
アルトが詠唱を始めた。
30年間、渡辺が壁に刻み続けた言葉。手帳に写し取った一文字一文字。声に出す。
POW対抗ロール
クリティカル(1)
— 詠唱は完璧に成功した
横山が隕鉄の短剣で番人と戦う。番人が触れるたびに肉を削られながら、それでも退かない。
ごんがハンマーを振るい時間を稼ぐ。コナンが指示を出す。
詠唱が完了した。
三つの器が光り始めた——珊瑚の笛、銀の杯、海神の壺。それぞれが翠の光を放ち、共鳴した。
番人の体が、崩れ始めた。
光の柱が、神殿の天井を貫いた。海を貫いた。星まで届くような、蒼い光が。
沈む神が——再び眠りについた。
神殿から脱出した。
嵐が止んでいた。雲が切れ、星が見えた。
渡辺が空を見上げた。30年ぶりに見る夜空。その顔に、笑みが浮かんだ。
船で霧崎へ向かった。老人が黙って待っていた。「帰るか」とだけ言った。
船上で、アルトは手帳を取り出した。最後のページを開いた。そして、書いた。
烏丸がデッキに座っていると、後ろからごんが近づいてきた。
ごんの拳が、烏丸の肩を叩いた——いや、軽く殴った。力は抜いてあった。たぶん。
烏丸は笑った。
霧崎の港が見えてきた頃、空が白み始めていた。