山道を抜けると、湯気が見えた。
百年の歳月を纏った木造三階建て。軒先に吊るされた提灯が、午後の薄暗がりの中で橙色に揺れている。鶴来館——山間の温泉旅館。ここがW.W.の手帳に記された、もうひとつの調査地だった。
玄関を潜ると、鶴来玲子が出迎えた。女将。着物の所作は完璧で、微笑みには一分の隙もない。
案内されたのは二階の客室。畳の匂い。障子越しの山の稜線。何もかもが穏やかだった——表面上は。
もうひとり、見覚えのある顔がいた。朝倉瑞希。W.W.——渡辺渉のかつての教え子で、今は独立した研究者。温泉水の成分異常を調査しに来たのだという。
館内を案内された。一階のロビーと食堂。二階の客室。三階の展望。そして——地下二階は封鎖されている。理由は「老朽化」。女将はそれ以上、何も語らなかった。
アルトは売店で塩と懐中電灯を買った。直感か、あるいは経験か。どちらにせよ、正しい判断だった。
コナンが浴場で見つけたのは、湯の中に沈んでいた二つのもの。
ひとつは手帳。W.W.の筆跡。渡辺渉がこの旅館を調査していた記録——渦ノ島の事件よりも前に。この温泉の地下に、何かがあることを突き止めていた。
もうひとつは、黒い石。表面は滑らかで、異様に重い。握ると、かすかに温かい。
朝倉が温泉水を分析した。結果は異常だった。
W.W.はこの場所を知っていた。渦ノ島よりも先に。そしてここを調べた後に、あの孤島へ向かった。時系列が、繋がり始めていた。
夕食の席に、鶴来館の全員が揃った。
女将の鶴来玲子。支配人の大森健太郎。仲居の宮本さくら。料理長の赤井修一。清掃係の桐谷美月。研究者の朝倉瑞希。作家の久我崎透。元看護師の鳥居幸恵。八人。そして探索者二人。合わせて十人が、一つの食卓を囲んだ。
料理は完璧だった。山菜の天ぷら。岩魚の塩焼き。だが、アルトとコナンは箸を動かしながら、全員に話を聞いていた。
最初に口を割ったのは、清掃係の桐谷美月だった。
フリーライターの久我崎透はオカルト専門。三ヶ月前に「黒い水」の噂をネットで見つけて、取材に来たのだと言った。
そして鳥居幸恵。退職した元看護師。彼女だけが、長い時間を知っていた。
食卓の空気が変わった。全員が何かを知っている。そして全員が、何かを隠している。
20時。温泉の水が黒く変わった。
浴槽の底が見えない。湯気の匂いが変わり、金属と泥と——何か生き物の臓腑を思わせる匂いが館内に広がった。
外を見ると、山道が崩れていた。土砂崩れ。携帯電話は圏外。固定電話は不通。閉じ込められた。
コナンが動いた。女将の部屋へ忍び込み、地下への鍵を盗み出した。
久我崎が切り札を出した。館内の監視カメラの映像。彼が数日間こっそり録り溜めていたものだ。
監視映像
毎夜2時、女将が地下へ降りていく。
影がない。
— 映像の中の鶴来玲子は、影を落としていなかった
さらに、美月が口を開いた。旅館の裏山に祠がある。そこから地下遺構へ繋がる道があるのだと。
全ての情報が、地下を指していた。
料理長の赤井修一が、厨房の奥で待っていた。
四十年。この男は四十年間、この旅館で料理を作り続けてきた。そしてもうひとつ——供物を作り続けてきた。
先代の女将の供物は「封じる」ためのものだった。地下に眠るものを鎮め、温泉の恵みだけを地上に通す。四十年間、赤井はその製法を守り続けた。
だが三ヶ月前に女将が代わってから——
封印と支配。似ているようで、まるで違う。先代は地下の存在を「眠らせて」いた。今の女将は「手懐けて」いる。
赤井は懐から二つの包みを取り出した。
22時。館内の灯りが、一斉に落ちた。
完全な闇。窓の外にも光はない。山の中の旅館は、世界から切り離されたように暗い。
十分間。女将の姿が消えた。
十分後、何事もなかったかのように戻ってきた鶴来玲子は、微笑みながら言った。
コナンは黙っていた。だがアルトは見逃さなかった。
髪の分け目が、左右逆になっている。
停電前と、停電後で。同じ顔。同じ着物。同じ微笑み。だが髪の分け目だけが——鏡像のように反転していた。
アルトが指摘した。女将は一瞬だけ表情を消し——そしてまた微笑んだ。
はぐらかし。否定。そして背を向けて、廊下の奥へ消えた。足音は——しなかった。
七人で裏山に登った。
アルト。コナン。朝倉。久我崎。赤井。先導する美月。夜の山道を懐中電灯の光だけが照らした。
山道を二十分。木々が途切れた場所に、苔むした石の祠があった。古い。百年どころではない——この土地が旅館になる遥か前から、ここに在ったもの。
美月が石を指さした。
全員で石を動かした。重い。だが動く。石の下に——古い石段が現れた。下へ。暗闇の中へ。
地下三階。旅館の構造にはない階層。百年前の建築図面にも記されていない場所。
石段を降り始めた。懐中電灯の光が、壁に刻まれた文様を照らした。渡辺の手帳にあったものと同じ——古代の封印の紋章。
地下三階は、人間が作ったものではなかった。
岩盤を削ったような通路。壁は湿り、黒い水が染み出している。温泉の源泉——いや、温泉に偽装された何かの通り道。
通路の奥で、水が蠢いた。
水脈の影——形を持たない水の存在。壁から、床から、天井から滴る黒い水が一つに集まり、人の形を模して立ち上がった。
アルトが赤井の供物を取り出した。包みを解き、水の存在に向かって投げた。
供物が水に触れた瞬間、影は悲鳴のような音を上げて崩れた。黒い水が壁に染み込み、通路が静まり返った。
さらに奥へ。地下四階——祭祀の間。
祭祀の間に降りた時、女将は既にそこにいた。
あり得ない。七人は裏山の祠から降りてきた。女将は旅館にいたはずだ。別の道を通ったとしても、先に着くことは不可能な距離。
だが——そこにいた。祭壇の前に。着物姿のまま。微笑んだまま。
そして、仮面を脱いだ。
「ずっと見ていましたよ」
「三つの封印。面白い虫たちですこと」
声が変わった。顔が変わった。空間が歪んだ。
朝倉が震える声で名を呼んだ。
アルトの膝が折れた。視界が回転する。一時的狂気——存在の根底が揺さぶられた。目の前の存在は、人間の理解を拒絶する形のない悪意だった。
コナンが最後の鎮静剤を使った。アルトの腕に注射器を押し当て、薬液を送り込む。
アルトの目に、光が戻った。
逃げるか。封じるか。追い出すか。
アルトとコナンが選んだのは——追放。
コナンが封印の鏡を掲げた。手にはもうひとつ——隕石の欠片。渦ノ島から持ち帰った、外なる存在に干渉する力を持つ石。
五人が円陣を組んだ。アルト。コナン。朝倉。久我崎。赤井。全員の意志を、ひとつに合わせた。
POW対抗ロール — 全員の精神力を結集
14 vs 80
圧倒的成功
— ニャルラトテップは鶴来館から追放された
鏡が光った。
隕石の欠片が共鳴し、封印の紋章が祭祀の間の壁全体に浮かび上がった。地下三階の通路が。地下二階の封鎖された空間が。旅館の基礎が。全てが光で満たされた。
女将の姿をした存在が——笑った。
形が崩れた。着物が空になった。そこにいたものが、消えた。
光が収まった時、祭祀の間には五人だけが立っていた。壁の封印紋章が、淡い琥珀色に輝いていた。
地上に戻ると、空が白み始めていた。
温泉の水は透明に戻っていた。通信が復旧した。土砂崩れの向こうから、既に重機の音が聞こえている。
女将の部屋を開けた。中にあったのは——畳の上に広げられた、空の着物だけ。人の形を保ったまま。中身だけが、消えていた。
全員が生きていた。
朝の厨房から、出汁の匂いが漂ってきた。赤井が包丁を握っていた。四十年間、毎朝そうしてきたように。
誰も、何も言わなかった。
十人分の朝食が、食堂に並んだ。湯気が立つ白米。味噌汁。焼き魚。漬物。
生きている。全員。それだけで——今朝は、十分だった。