二週間ぶりの霧崎市は、濡れていた。
アスファルトの隙間から塩水が滲み出している。排水溝は逆流し、街路樹の根元に白い結晶が浮いていた。井戸という井戸が溢れ、路地の片隅に潮溜まりができている。海から三キロ離れた住宅街にまで、潮の匂いが届いていた。
鳴ったのは稲葉からの電話だった。
鷺宮アルト。SAN値22。四つのセッションを生き延びた記録官。もう恐怖に慣れたのではない——恐怖の中でも動けるようになっただけだ。
今回は新たな顔が二つ。
S.W.——アメリカから来た女性。W.W.こと渡辺渉の妻。夫の消息を追って、海を渡ってきた。三十年。待ち続けた三十年の果てに、この町に辿り着いた。
犬山犬一——元自衛官。寡黙で、判断が速い。銃器の扱いに慣れた手。理由は語らなかった。
三人が霧崎市の駅で合流した時、足元の側溝から塩水が噴き出した。街が、沈み始めていた。
S.W.は待てなかった。
朝倉と合流するなり、胸倉を掴んだ。
朝倉が知っていることを話した。渡辺渉のこと。渦ノ島のこと。封印のこと。S.W.は聞きながら、何度も唇を噛んだ。泣かなかった。泣く代わりに、拳を握った。
港へ向かった。浜田を探すためだ。
浜田剛は船着き場にいた。しかし——その姿は、以前とは違っていた。
首筋に鱗状の変色。指の間に水掻きのような膜。深きものの徴候。変質が、始まっていた。
S.W.が浜田の頬を張った。乾いた音が港に響いた。
浜田は殴り返さなかった。ただ、震えていた。
鱗に覆われ始めた手で、浜田は顔を覆った。裏切り者であり、被害者でもある男。その境界は、塩水のように曖昧だった。
山を登った。
常世集落の廃墟。第二章で訪れた場所。苔むした石垣と、崩れた家屋。そして——あの井戸。
S.W.は井戸の縁に立った。暗い水面を覗き込み、声を上げた。
沈黙。水面が揺れた。
そして——声が返ってきた。
井戸の底から。水を通して。三十年の時を超えて。
常世の井戸 — 水を介した邂逅
「......聞こえるよ。ずっと、聞こえていた」
三十年。妻と夫が、水を通じて再会した。
W.W.——渡辺渉の声は穏やかだった。身体はとうに失われている。水脈の中に溶けた意識だけが、妻の声を聴いて、最後の力で応えた。
W.W.は二つのものを残した。
そして、最後の言葉。
水面が静まった。もう、声は聞こえなかった。
S.W.は井戸の縁に額を押し当て、長い間、動かなかった。泣いていたのかもしれない。泣いていなかったのかもしれない。誰も、確かめなかった。
古書店の扉を開けた。
黒沢静江。この街の全てを記録してきた老女。カウンターの向こうで、変わらず座っていた。
アルトが水脈の地図を要求した。黒沢は細い目でアルトを見つめ——そして、笑った。
その言葉が、アルトの胸を突いた。渡辺渉。全ての始まりの記録官。三十年前に海の底に消えた男。自分は、その道を辿っている。
黒沢が地図を渡す手は、かすかに震えていた。
病院は半ば浸水していた。
一階の廊下に数センチの水。備品室から応急キットと鎮静剤を確保した。短い立ち寄り——のはずだった。
犬山が院長室でSDカードを見つけた。藤堂のもの。海底洞窟の映像が記録されていた。
再生した映像の中で、カメラが水面に沈む直前——巨大な触手の影が一瞬、横切った。
誰も、何も言わなかった。
地下へ降りた。
水脈地図に記された経路。古い排水路が、海底洞窟への通路になっている。壁面は藻と塩の結晶に覆われ、膝までの水が流れていた。
奥から——それが現れた。
水脈の番人。水と岩と、何か有機的なものが融合した巨体。通路を塞ぐように立ちはだかり、六つの目が一行を見据えた。
戦闘が始まった。十一ラウンド。
犬山が最初に動いた。軍人の本能。壁面の排水弁を見つけ、全体重をかけて回した。水位が下がり始める。番人の動きが鈍くなった。
アルトが攻撃を繰り返した。しかし番人の再生能力は凄まじく——第七ラウンド、番人の触腕がアルトの胸を貫いた。
DEATH RETURN #1
鷺宮アルト — 戦死
水脈の力が彼を引き戻した。死の先から。
アルトが目を開けた時、水溜まりの中にいた。死に戻り。この街の水脈が与える、残酷な恩寵。
そして——S.W.が動いた。
武器を持っていなかった。銃も刃物も持たない、アメリカから夫を探しに来ただけの女性。番人の核が露出した瞬間、S.W.は走った。素手で。
決定打
「これはウォルターの分よ!」
S.W. — 素手で核を粉砕
拳が核に叩き込まれた。水と岩の巨体が、内側から崩壊した。
十一ラウンド。長い戦いだった。水路に崩れた番人の残骸の中から、ヒュドラの鱗が転がり出た。
水路を抜けた先に、海があった。
天井が消えていた。代わりに、巨大な空洞。岩壁に打ち寄せる波。地上からは見えない、海の底に穿たれた大聖堂。
そして——彼女がいた。
水面から立ち上がる無数の触手。蒼白く発光する巨体。人間の上半身に似た輪郭を持ちながら、その下は海そのもの。ヒュドラ——この海域を支配する深海の女神の投影。
作戦は一つ。朝倉がW.W.の最終定理を詠唱する間、三人が三ラウンド持ちこたえる。
三ラウンド。永遠のような三ラウンド。
第一ラウンド。アルトが封印の鏡を掲げた。ヒュドラの触手が鏡面に触れた瞬間、弾かれた。光が海底洞窟を照らした。
第二ラウンド。犬山が結晶を嵌め込んだ鉈で触手を斬った。一本。二本。三本。斬っても斬っても生えてくる。それでも犬山は止まらなかった。
第三ラウンド。S.W.がショットガンを構えた。ヒュドラの注意を引くために。弾丸が女神の顔に命中した——効いてはいない。だが、視線がS.W.に集中した。
触手がS.W.を打った。身体が岩壁に叩きつけられた。戦闘不能。
だが——その瞬間、朝倉の詠唱が完成した。
封印詠唱 — W.W.の最終定理
封印完成
朝倉瑞希 — 師の遺した定理を詠み上げた
渡辺渉が三十年かけて解いた方程式が、海の女神を再び眠りに就かせた
水面が光った。洞窟全体が震えた。ヒュドラの巨体が——ゆっくりと、沈んでいった。触手が一本ずつ水面下に消え、蒼白い光が遠ざかり、やがて闇だけが残った。
封印は、成った。
空が、白んだ。
海底洞窟から地上に戻ると、潮が引いていた。道路の塩水が乾き始めている。井戸の水位が下がっている。空気から、あの重い潮の匂いが消えていた。
浜辺に人影があった。
浜田の妻と娘だった。波打ち際に打ち上げられるようにして、二人が横たわっていた。息があった。意識が戻った。浜田が駆け寄り、二人を抱きしめた——鱗に覆われ始めた腕で。
浜田はアルトたちの前に立った。そして、頭を下げた。
S.W.が浜田を殴った。二度目だ。今度は拳で。
それだけだった。それ以上は、何も言わなかった。
S.W.はウォルターがもう戻らないことを知っていた。井戸で聞いた声が最後だった。三十年待って、声を聞いて、そして——送り出した。
彼女はアメリカに帰ることにした。
アルトは手帳を開いた。全てを書いた。海から来る霧のこと。常世集落のこと。渦ノ島のこと。鶴来館のこと。そしてこの、最後の潮のこと。
記録官は記録する。それが、残せるもの全てだから。
霧崎市は、生き残った。